2019年 読書記録
一年に一度更新する頻度になってしまった。それはそれで良い。
にしても、ブロクで文字を書くというのはずいぶん久しぶりだ。
はてなブログで書き始めて最初の記事は、ライジングサンに出演したときの記事だった。もう6年前かー。ということはフジロックに出演したのは7年前? 時の流れるのは早いもんですな。
思い出を連ねてもしょうがないので、本題へ。
2019年は恐らく人生で最も本を読んだ1年だった。読書記録を付け始めたのが2016年からなので、2016年以前に読んだ冊数は不明である。また「本を読む」ということは著作を通じて世界と対話することだと僕は思っている。だから、単純に冊数を重ねることが良い読書体験だとは言い切れない。
それにしても読んだ。読んだなー、去年は。実に206冊(再読含む)。
映画『シン・ゴジラ』に出演された俳優さんと食事した際に「劇場に7回行って、DVDで13回見て、計20回鑑賞しています!」と伝えたら、少し困った表情をされて「セイヤ君はハマったモノがあると、ちょっと、こう(と言って視野が狭くなる感じの身振りをされて)なっちゃう人なのかな?」
と仰っていたのだけど、確かにそうなのかもしれない。ティーンエージャーの頃から読書は好きだけど、最もズブズブの沼読書をした年が2019年だ。今年はどうなることやら。スコッチ・ウイスキーにハマりかけているので危険である。高くつく趣味は避けたいところなのだが……。
とにかく、去年読んだ本の中で、印象に残ったものを10冊セレクトしてみよう。
僕はブロガーでもなければプロの読み屋でもないので、個人的な偏見に満ちた選書である。簡単に感想を付記するが、何の忖度も無い代わりに読書案内になるものではないことだけは了承していただきたい。
1:『3の隣は5号室』長嶋有
今まで読んできた小説の中でもトップクラスに好き。名作。これこそが小説。長嶋有さんは他にも『猛スピードで母は』、『夕子ちゃんの近道』など素晴らしい作品がある。
こんな面白い小説はなかなか他にない。平行世界系の小説は2000年以降に日本でとても流行した印象があるけど、わけても抜群に面白い。原作も映画も良い作品って珍しい。
3:『わたしを空腹にしないほうがいい』くどうれいん
ご飯にまつわる短歌とエッセイ。瑞々しい感性ってこういうのを言うのだなあ。おいしそうに書く、って才能だ。こんなに素直に、好きなものを好きって言える人は本当に素敵。
4:『家の中にストーカーがいます』林公一
林公一先生は精神科の医師。様々な相談に関して、切れ口鋭い回答が並ぶ。統合失調症・パーソナリティ障害など、病名を知らないとただ「変な人」「ちょっとおかしい人」になってしまう人が世の中には驚くほど多い。
5:『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治
「心が悪いから」「育った環境が悪いから」人は犯罪を犯すわけではない。「認知の歪み」という概念もあるのだということ。
6:『頭の中がカユイんだ』中島らも
短編とエッセイが合計4篇入っている。表題作が白眉。これぞダダイズム。確かな教養と詩情に裏打ちされた、 文学史に残るオオサカ・スティップスラック。最高。
7:『むらさきのスカートの女』今村夏子
今村さんが書く物語は確かに文壇でウケそうなモチーフやテーマなんだけど、そこにずば抜けた面白さ、人間を描くことの妙味がある。本人の奥底から湧き上がってくるオリジナリティゆえだろう。
8:『神々の食』池澤夏樹
写真とともに綴られる、沖縄料理・食材にまつわるエッセイ。2003年に初版発行だから、現在の沖縄とは違うだろうが故に、今の時代にこの本は一層輝いている。著者が沖縄に住んでいるからこそ、これだけ地に足がついた文章が書けるのだろう。
言葉で織られたオブジェを宝石箱の中へ綺麗に配置しているような印象。他の作品を少しだけ原文で読んでみたけど、雪の下から新芽をそっと摘まむような繊細な美しさがあった。翻訳でもそれは損なわれていない。
同率で10:『夜間飛行』サン=テグジュペリ・『熱帯』森見登美彦
『夜間飛行』
美しく力強い文体で、飛行士たちの物語が語られていく。文章の向こう側から、彼らが命がけで行ってきた仕事、サン=テグジュペリの息遣いさえもが届いてくる。地中海で突然消えた彼の言葉が、時代と国を越えてくる。芸術作品は、時空さえも越境するのだ。
『熱帯』
〈読書会〉・〈海洋冒険浪漫〉・〈千夜一夜物語〉・〈メタ・フィクション〉などなど、個人的に大好きな要素がてんこ盛りで、読み終わってから「ああ!」と声に出して天を仰いでしまった。京都について書かれている箇所は筆が踊ってる。天晴れ!
次点:『ニュー・クリア・エイジ』ティム・オブライエン
実にアメリカ文学的なテーマで、作家が延々とペンの力で〈アメリカ〉を掘り進めている。長けりゃいいってもんではないけど、「小説を平らげた」という満足感が得られる本。平らげたとはいえ、これから人生かけて噛み砕いて、咀嚼していかなければいけない。でも小説ってそういうものなんじゃないかな。
そんなところで。また来年!
2018年鑑賞記録
近況報告などは直接会った人に直接話すとして、ここでは、2018年に観た映画に限って記す。
映画は60本見た。個人的に良いと思ったもの、印象に残ったものを紹介をしていこうと思うのだが、2ヶ月に2本ていどの割合で書くこととする。
仕事でもないのに、すべての感想など書ききれないから。
逆に言えば仕事としてならいくらでも書くので誰か仕事を……なんて言っても世の中にライターもブロガーも溢れかえっている状態で茶を濁す必要もあるまい。蛇足。チクショー!
監督名は省略する。再読、再見もあるが特に記さない。あくまで「今年観たもの」として記述していく。
【映画編】
[1・2月]
〈オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ〉〈シング・ストリート〉
爆音映画祭で見た二本。極音・爆音・絶叫上映と様々展開されていて面白い。〈ベイビー・ドライバー〉は10回くらい見たけれど、去年、散々色んな所で話したからこれは省く。
[3月・4月]
〈Loving Vincent ゴッホ最期の手紙〉〈rainbow thief 虹泥棒〉
ゴッホに関する映画は数あれど、映画史上初の全編絵画で構成されているというのも面白いし、画だけでなく、ストーリーなど全体的に良かった。虹泥棒は去年と今年見たホドロフスキーの中で一番好きだった。
[5月・6月]
〈ダンガル きっと、つよくなる〉〈フロリダ・プロジェクト〉
インド映画はスポーツの出てくる部分を省略しないと聞いたことがあるが、今作もそう。レスリングを何試合もドキュメントで見ているような感覚に陥る。邦題には笑ったけど。
フロリダ・プロジェクトは今年見た中で一番良かった。良いと思うものは余計な言葉を重ねたくない。
[7月・8月]
〈ブリグズビー・ベア〉〈ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目覚め〉
この時期、ラジオ・コバニ、ラッカは静かに虐殺されている、ガザの美容室なども見て、本ではアンダーグラウンド、教誨師などを読み、頭の中で多数の声が聞こえた。この「声」は別の形で発露させる。だからここではなるたけハッピーなのを紹介する。どちらもコメディアン、元コメディアンが作成した映画で笑えるし、ほっこりするし、筋もいい。素晴らしい。
そういえば〈カメラを止めるな!〉もこの時期見た。面白かったし、流行る前に見れてなお、よかった。
真実を炙り出し、突きつけるのも映画であるが、心の中をほぐし、癒やす虚構を生み出すのもまた映画である。創作や表現すべてに通ずることではあるが。
[9月・10月]
〈SMOKE〉
ティーンエイジャーの頃に初めて見た。その頃くらいから、いわゆるハリウッド大作的な映画だけではなくて、様々な種類の映画を見出した、という思い出のある作品。
見直してみると文学的・哲学的な匂いが強すぎるきらいもあるが、ポール・オースター脚本とくれば当然であろう。それがいいのだし。
元になった小説「オーギーレンのクリスマスストーリー」を自分なりに和訳したのは面白かった。添削してもらったらめちゃくちゃだったけれど。仕事じゃないんだから、文法的に正しいか否かは問題ではない。どれだけの密度で作品を飲み込めるかどうかが肝要なのである。
[11月・12月]
〈世界で一番ゴッホを描いた男〉〈ゴッド・ファーザー〉
中国のダーフェン絵画村で複製画を描き続ける男のドキュメンタリー。美大卒の友人に勧めたところ「その人の存在は知っていた」ということ。友人がゴッホ好きだからかもしれないが、有名なんだろう。僕は中国に絵画村があることも知らなかった。現役の美大生に見てほしい。
ゴッド・ファーザーは大好きな映画で、観た人と感想を分かち合うたびに新たな発見がある。数多くの視点を有する作品は素晴らしい。
駆け足で書いてきたけど、割と時間を使ってしまった。年始に持ち越してしまった雑事が山積してるから、読書編は書けそうにない。1月半ばに振り返るもんでもあるまいし……。
本は163冊読んだから、とてもじゃないけどこの量には収まりきらないのだ。
もし、「読書編も読みたい」という人が一人でもいれば日を改めて、書く。
カランコエの花
※本文にいわゆるネタバレがあるので、避けたい方は見ないでいただきたい。
先日、「カランコエの花」という映画を見た。感想を求められたのだが、一言で返すのが難しく、かと言って、とりとめのない素人の文章をlineで送るのも迷惑かと思い、こうして今、書き綴っている次第である。
本当は、見た当日に文章としてまとめることができれば良かったのだが、どうしてもなさなければならぬこともあり、生活の糧を得るための労働もあり、労働を支えるための休息や睡眠が必要であり……と言い訳を書き出せばキリがないので早速、本題に取りかかることとする。
そもそも映画のことを知ったのは、僕が関西にいた時代の、京都の遊民であり詩人であり、元バンドマンの友人からである。その友人(仮にO とする)は、年間300本くらい映画を見ている奇特な人物で、僕とは結構、価値観というか美術観というか“いいと思えるポイント”が似通っている。
「Oが云うのであればまあ、面白いんだろう」と新宿ケーズシネマへ出掛けていったのだが、満席で入れなかった。これを見るために七藝へ出かけるのも一興だろうと思っていたところへ、アップリンクでの上映という情報が舞い込んできて、早速チケットを取ったのだ。
映画自体は39分というとても短いものだったが、きちんと起承転結もあったし、サスペンス的とは言わないまでも「ほー、そうくるのかー」と思わせるところもあった。インディペンデント系の映画にありがちな(この言い方はもしかして失礼なのかな?)風景画のような田舎の映像が差し込まれるところも、ど田舎出身である僕は、郷愁を誘われた。
ただ、正直に言って、僕としては、共感は得られなかった。当然といえば当然であろう。なぜなら、年代も性別も違う子たちが主人公なのである。むしろ担任教師の立場で見てしまった。もちろん、共感できるかどうかが映画(ひいては芸術作品全般)において重要なわけでは決して無い。
僕自身、分類するならばストレートであり、少年とは言い難い年齢であり、一般的な高校生活というものもあんまりよく分かっていない。だから、この映画は『一歩離れたところから客観的に見ることを逃れられない』映画なのであった。
監督も「自分がストレートだから、主人公がLGBTではなく、周りにいるLGBTの人に対して、ストレートの主人公がどのような働きかけをするのか、どのような感情を抱くのか」ということを描いたはず。朧気な記憶を辿って意訳したので、気になった人はインタビュー記事を探して読んでいただきたい。
少し話が逸れるが舞台挨拶の中で監督が「今の女子高生の話が書けるわけ無いから、即興で演じてもらった」という場面があって、実際、とても自然な演技だった。あたかも、昼休みを過ごす女子高生たちの輪の中に自分も佇んでいるような奇妙な錯覚を覚えたほど。文字にして綴ると危険な妄想のようだが、そうではない。演技と演出の素晴らしさをたたえているのである。
僕はストレートであるが、マイノリティと呼ばれる人たちに対して特別な感情はない。攻撃感情もないかわりに、特別、応援したいような守ってあげたい感情みたいなものも無い。例えば、僕の家族や親しい友人がLGBTであることを公表したとしても「ふうん」で済ませると思う。本当に。
自分の常識を押し付ける人や、自分と違う人を排除しようとする人というのは確かにいる。だが僕はそういう人たちと接しても「持っている世界や見えている景色が狭いんだろうなあ」と思って観察するばかりであって、悲しんだり悔しがったりはしない。よくいえば超然としているんだろうし、悪く言えば不感症、というより、ある種のアパシーなのであろう。
それもあって、いまひとつ映画に入り込めなかったのかもしれない。
とにかく、「共感できない」僕が、それでも考え続けた末に、持て余した感情の発露に選んだのは対話であった。同じ映画を見た人たちと意見を交換する場を意識的に持った。このことは、ひとつの収穫であった。
転んでいる人を見て、同じ痛みが自分の身体には起こらない。だが、「痛そうだな」という共感を覚えることは出来る。その「痛そうだな」を思えるかどうかは、想像力の有無にかかっている。想像力とは、つまり経験と思考の総量である。
年代も時代も性別も、さらに言えば、国籍や文化風習がまるきり違う人々に対して、それでも、想像の枝葉を延ばすことが僕らには出来る。回答を留保するため、安易に使われる「知ることが大事」という言葉が僕は大嫌いなのだけど、それでも敢えて、ここでは「知ることが大事なのだ」と声高に叫びたい。
知らなければ、想像の取っ掛かりすら持ちえないではないか。
ポール・オースターが「最後の物たちの国で」の中でこんな文章を書いている。
〈考えても考えても言葉が出てこない、もうどうあがいても絶対に見つかりっこない、そう思ったところではじめて言葉はやって来るのです。毎日が同じ苦闘、同じ空白の繰り返しです。忘れたいという欲求、そして忘れたくないという欲求の繰り返し。それがはじまったら、この地点、このぎりぎりの地点まで来てやっと、鉛筆が動き出すのです。物語ははじまって止まり、進み、やがて失われます。言葉と言葉のあいだで、どんな沈黙、どんな言葉が漏れ出て消え、二度と見えなくなってしまったことか〉
ちなみに、姉もこの映画を観るというので、僕は映画館で姉が出てくるのを待って、合流しようとしていた。だが10年以上ぶりくらいに読んだ安部公房「壁」がすこぶる面白く、気づけばカウンターの前で40分位経っていた。
携帯電話の画面に連なる不在着信。慌てて飛び出した映画館の外には誰ひとり立っていなかった。
視野は広く持ちたいものである。