まけまけいっぱいの愛を

力の限りに、“無意味・無作為に一生懸命な様子”を書き綴っていきます。 好きな言葉は、「どんぶり勘定、くんずほぐれつ、十把ひとからげ」です。

S(水曜日)のN(猫)とS(桜ノ宮)

友達と親友の境界線はどこにあるのだろう。

“親友”と呼べる人が一体、何人いるだろうか。

 

書いていて、反吐が出そうになった薄っぺらい一節ではあるが、気の置けない、どうでもいい話ばかりが延々と尽きないような、そんな友人が果たして何人いるだろう。僕がすぐに思いつくのは、片手で足りるほどだ。

 

その内の3人の話だ。

 

友人の一人が2週間、音信不通だと別の友人から連絡があった。

 

いわゆる、“親友”だと思っている、二人なのだが、その、音信不通になった友人の方は、僕を「芸術」という底無し沼に引き込んで、僕が芸大へ進学する決定打を放った人物であるが故に、とても不安になった。

なにせ、僕自身は平々凡々の人間であるにもかかわらず、何故か知らないが、あらかじめ決められてでもいるかのごとく、毎年必ず、僕の近しい人が、一人はこの世を去る。

その度に理由の見当たらない「ああ、僕は生きなきゃいけないんだ」という責任というか義務感みたいなものが去来するのだ。

 

今回の友人の件は、蓋を空けてみれば、ただ単に携帯電話が壊れているだけだったらしいので胸を撫で下ろしたものの、やっぱり、残されたものの立場になると、「生きざるを得ないんだ!」という感に堪えない。

 

 

去年の今頃、桜ノ宮在住の友人と、川を眺めながら、『水曜日の猫』というビールを飲み、与太話を交わしていた。

 

彼もまた、弥次さん喜多さん宜しく、出口の無い話を百花繚乱、咲かせることのできる人だった。

 

最近はめっきり通信が途絶えているが、どうやら元気でやっているらしい。恐らくは僕の、刹那的なほどの、いつ死んでもいいような生き方が、彼の価値観にそぐわなかったのだろう。

 

刹那的な生き方を構成している要素の大部分は酒にあるのだが、思えば、僕にとって酒というものは「破れ鍋にトジブタ」なんである。

どういうことかというと、僕にとっては、タナトスへの予行演習として酒がある。世界を構成する自分自身を世界ごと破壊する衝動を手っ取り早く、なおかつ寧ろ楽しげな様子で晴らしてくれようと言うのだ。訳知り顔をして近寄ってくるのが、この、酒というバケモノなのだ。太刀打ちの仕様が無い。

 

人は皆、己の心の空無を埋めるための、お誂え向きの“何か”を探している。

 

そのひとつとして最近では「SNS」というものが大手を振るって歩いているのであるが、その考察は次回にする。

 

文章が長くなったし、それに、「水曜日の猫」を含めて、机の上に所狭しと空き缶が並んでいるからだ。