まけまけいっぱいの愛を

力の限りに、“無意味・無作為に一生懸命な様子”を書き綴っていきます。 好きな言葉は、「どんぶり勘定、くんずほぐれつ、十把ひとからげ」です。

カランコエの花

※本文にいわゆるネタバレがあるので、避けたい方は見ないでいただきたい。

 

 先日、「カランコエの花」という映画を見た。感想を求められたのだが、一言で返すのが難しく、かと言って、とりとめのない素人の文章をlineで送るのも迷惑かと思い、こうして今、書き綴っている次第である。

 

 本当は、見た当日に文章としてまとめることができれば良かったのだが、どうしてもなさなければならぬこともあり、生活の糧を得るための労働もあり、労働を支えるための休息や睡眠が必要であり……と言い訳を書き出せばキリがないので早速、本題に取りかかることとする。

 

 そもそも映画のことを知ったのは、僕が関西にいた時代の、京都の遊民であり詩人であり、元バンドマンの友人からである。その友人(仮にO とする)は、年間300本くらい映画を見ている奇特な人物で、僕とは結構、価値観というか美術観というか“いいと思えるポイント”が似通っている。

 「Oが云うのであればまあ、面白いんだろう」と新宿ケーズシネマへ出掛けていったのだが、満席で入れなかった。これを見るために七藝へ出かけるのも一興だろうと思っていたところへ、アップリンクでの上映という情報が舞い込んできて、早速チケットを取ったのだ。

 

 映画自体は39分というとても短いものだったが、きちんと起承転結もあったし、サスペンス的とは言わないまでも「ほー、そうくるのかー」と思わせるところもあった。インディペンデント系の映画にありがちな(この言い方はもしかして失礼なのかな?)風景画のような田舎の映像が差し込まれるところも、ど田舎出身である僕は、郷愁を誘われた。

 

 ただ、正直に言って、僕としては、共感は得られなかった。当然といえば当然であろう。なぜなら、年代も性別も違う子たちが主人公なのである。むしろ担任教師の立場で見てしまった。もちろん、共感できるかどうかが映画(ひいては芸術作品全般)において重要なわけでは決して無い。 

 

 僕自身、分類するならばストレートであり、少年とは言い難い年齢であり、一般的な高校生活というものもあんまりよく分かっていない。だから、この映画は『一歩離れたところから客観的に見ることを逃れられない』映画なのであった。

 

 監督も「自分がストレートだから、主人公がLGBTではなく、周りにいるLGBTの人に対して、ストレートの主人公がどのような働きかけをするのか、どのような感情を抱くのか」ということを描いたはず。朧気な記憶を辿って意訳したので、気になった人はインタビュー記事を探して読んでいただきたい。

 

 少し話が逸れるが舞台挨拶の中で監督が「今の女子高生の話が書けるわけ無いから、即興で演じてもらった」という場面があって、実際、とても自然な演技だった。あたかも、昼休みを過ごす女子高生たちの輪の中に自分も佇んでいるような奇妙な錯覚を覚えたほど。文字にして綴ると危険な妄想のようだが、そうではない。演技と演出の素晴らしさをたたえているのである。

 

 僕はストレートであるが、マイノリティと呼ばれる人たちに対して特別な感情はない。攻撃感情もないかわりに、特別、応援したいような守ってあげたい感情みたいなものも無い。例えば、僕の家族や親しい友人がLGBTであることを公表したとしても「ふうん」で済ませると思う。本当に。

 

 自分の常識を押し付ける人や、自分と違う人を排除しようとする人というのは確かにいる。だが僕はそういう人たちと接しても「持っている世界や見えている景色が狭いんだろうなあ」と思って観察するばかりであって、悲しんだり悔しがったりはしない。よくいえば超然としているんだろうし、悪く言えば不感症、というより、ある種のアパシーなのであろう。

 それもあって、いまひとつ映画に入り込めなかったのかもしれない。

 

 とにかく、「共感できない」僕が、それでも考え続けた末に、持て余した感情の発露に選んだのは対話であった。同じ映画を見た人たちと意見を交換する場を意識的に持った。このことは、ひとつの収穫であった。 

 

 転んでいる人を見て、同じ痛みが自分の身体には起こらない。だが、「痛そうだな」という共感を覚えることは出来る。その「痛そうだな」を思えるかどうかは、想像力の有無にかかっている。想像力とは、つまり経験と思考の総量である。

 

 年代も時代も性別も、さらに言えば、国籍や文化風習がまるきり違う人々に対して、それでも、想像の枝葉を延ばすことが僕らには出来る。回答を留保するため、安易に使われる「知ることが大事」という言葉が僕は大嫌いなのだけど、それでも敢えて、ここでは「知ることが大事なのだ」と声高に叫びたい。

 

 知らなければ、想像の取っ掛かりすら持ちえないではないか。

 

 ポール・オースターが「最後の物たちの国で」の中でこんな文章を書いている。

 〈考えても考えても言葉が出てこない、もうどうあがいても絶対に見つかりっこない、そう思ったところではじめて言葉はやって来るのです。毎日が同じ苦闘、同じ空白の繰り返しです。忘れたいという欲求、そして忘れたくないという欲求の繰り返し。それがはじまったら、この地点、このぎりぎりの地点まで来てやっと、鉛筆が動き出すのです。物語ははじまって止まり、進み、やがて失われます。言葉と言葉のあいだで、どんな沈黙、どんな言葉が漏れ出て消え、二度と見えなくなってしまったことか〉 

 

 ちなみに、姉もこの映画を観るというので、僕は映画館で姉が出てくるのを待って、合流しようとしていた。だが10年以上ぶりくらいに読んだ安部公房「壁」がすこぶる面白く、気づけばカウンターの前で40分位経っていた。

 携帯電話の画面に連なる不在着信。慌てて飛び出した映画館の外には誰ひとり立っていなかった。

  

 視野は広く持ちたいものである。