まけまけいっぱいの愛を

力の限りに、“無意味・無作為に一生懸命な様子”を書き綴っていきます。 好きな言葉は、「どんぶり勘定、くんずほぐれつ、十把ひとからげ」です。

3.11を過ぎて。

こないだ、災害時におけるミュージシャンという職能の弱さ、みたいなことを書いたけれど、違う視点からも意見を述べておきたい。
 
ここから話が少し迂回する。
僕個人の話になるけれど、去年末まで主に参加していた一つのバンドがあって、その活動に肉体面、精神面、金銭面の全てを注ぎ込んでいた。

そのバンドの前、更にはもうひとつ前、もう二つ前、と、いつ頃からか僕は己の全てを"バンド"というものに注ぎ込むような生活になっていてそれはそれで迷いなく活動していたのだけど、見たいものや行きたい場所も我慢していた一面もあるし生活が逼迫していた時期もよくあった。

今、体力面、精神面に余裕がある状態で音楽や舞台や映画を鑑賞すると昔よりももっと"染みる"というか、心のどこにも引っ掛かることなく胸に染み渡っていく感覚になる。

他人が読んだら全く何を言いたいのか分からない気もするが、結局のところ何が言いたいかというと、あくまで音楽やその他色々な表現というものは、生活に余裕がある人に対してのものではあるかもしれないけれど、それでも人の心を励まし、癒し、鼓舞し、寄り添い、そして浄化していくものであるということ。

5年を過ぎた今になって思うことは、音楽や表現というものは世界を救う一助になり得る…というかやっぱりそこを目指していかないと嘘だろうという気がしている。

音楽は人の命を救ったり病気を治したりは出来ない。未曾有の災害時においては癒すということもままならないかもしれない。でもそれは単にミュージシャンの力量不足なのかもしれない。そうだとするなら、力のある人間になりたい。

何はともあれ、震災は多くの人の生活を大きく変えた。多くのミュージシャンの生き方や考え方、価値観もまた、変えた。命を救うことの出来ぬ音楽を、音が商売になりづらい時世でなお、奏でようとする意義とは。

昨日見に行ったライブで、音によって身の内から浄化されるような体験をしてしまったものだから、音というもの、音楽というものの力強さをひしひしと感じている。まだまだ答えは出ないけど光は見えるような、そんな気がしている。